いぬの死んだ時の話

いぬが死んで5年半が経とうとしていますね。

 

いぬは死ぬ前に半年ちょっとくらい要介護状態で、それは母が担っていました(当時私は実家からふたつみっつ離れた県で暮らしていたので)。

たまに帰るとすっかりやせ細って、だんだんと自力で立つことがままならなくなっていくのがわかりました。

いよいよもって死が近づいてきた頃には顎の下のところに水が溜まって、痩せて骨が浮き出ているにもかかわらずそこだけ妙にたぷたぷしていました。

春もそろそろ終わりの時期だったけれど、皮下脂肪のないいぬのためにストーブをつけて、いぬはセーターを着せられてブランケットをかけられていました。

柴犬には認知症になる子が多いらしいですが、柴犬が混じっている可能性の高いいぬも認知症で、もう私のことがわかるのかもわからない状態でした。たまにしか帰らなかったからね。

 

私の誕生日からちょうどひと月、そろそろあぶないと聞いていたので実家に帰りました。本当はその前の週にも帰省していましたが、そもそも私はいぬに会いたいから帰っているのです。

帰ったその日はなんともなかったので、もうこのままなんともなくてもいいのではないかと思っていたけれど、翌日の早朝、いぬの鳴き声に目を覚ましていぬのいる居間へ行くと、すでに父と母がいぬのそばにいました。

なにか訴えるようにしきりに鳴くものですから母がいぬを抱き上げたところ、その腕の中でいぬは死にました。

 

母はそのとき「抱っこしなかったらもっと生きていてくれたのかな」と後悔する気持ちがあったそうです。

私が思うに、死ぬときに鳴いて家族を呼びあつめるようないぬが、母の腕に抱かれず床の上で最期を迎えるのはきっと嫌だったでしょうから、母は最も正しい選択をしたのだと思っています。

 

ともかくいぬは死にました。

いぬの死体は不思議でした。いぬが死んでいる、というより、死んだいぬがいるという感じで、なんとも表現しづらいのですが、眠っているわけではないと知っていますし、二度と目覚めないこともわかっているものの、なんというか、動かないだけでいぬはそこにまだ存在しているのです。死んだからっていぬが変わるわけではないし、手触りはそのままだし、かわいいし、大切で愛おしいままなので、ただなんか動かなくなってしまってもう二度と私を見ることがなくなってしまってすごく困るしとても悲しいことだと思いました。

私はまだまだいぬと生きていたかったしいぬと過ごす人生が足りない(そもそも足りるということは起こりえない)気持ちでしたので、死んだかと思ったけど実はギリギリ生きていたし、こっそり目を開けてくれてしかもみるみるうちに元気になっていく! みたいなすごい現象が起こってくれてもよかったんですけれど、そういうこともなくいぬはずっと死んでいました。

 

で、死んだものは葬らなければなりません。

花を買いまして、死んだいぬを車に乗せて近くのペット葬をやっているお寺に行きまして、このいぬのサイズなら何円です、ということでお金を払って死んだいぬを詰める用の籠を買いまして、いぬと花とを籠の中に詰めまして、それで置いていくとほかの死んだ動物と一緒に焼かれます。

私はここで、いぬを置いていくところが一番わかりやすくつらかったです。なんでいぬだけこんなところに花なんかと一緒に籠に詰めて置き去りにしなければならないのか。いぬと一緒に家を出たのになぜいぬだけ置いて帰るのか。なぜ迎えにいくことができないのか。実は生きていたいぬが炎の中で苦しんだりはしないのか。さまざまな不安がありました。

 

それはさておき一晩経ったので、いぬは間違いなく焼かれました。

ひと月が経ってまた実家に戻り、両親とふたたび訪れたお寺には、葬られた動物たちの名前が一覧になっています。その中にいぬの名もありました。これはずっと掲示されるものではなく、少しずつ新しいものに置き換わっていきます。いずれはいぬの名前も消えます。いぬがどこにいるのかわからなくなってしまうんですね。

 

なんでこう、半端なタイミングで死んだいぬの話などしているかというと、私はいぬを永遠にしたいからです。

私が神ならば永遠に存在し続けますので、私の心の中のいぬも必然的に永遠です(そもそも神の力でいぬを不老不死にします)。しかし残念ながら今生、徳が足りなさすぎて普通にくたばりそうですから、半永久的に残るであろうインターネットさんにいぬのことを残しておいてもらおうと思いました。インターネットさんというかはてなブログさんがいつまで生きているかはわかりませんしまあ大体のものはいずれ死にますけれど、少なくとも私よりは死なないでしょうし、インターネットさんは無生物なので不死もワンチャンあります。わんちゃんだけに。