完成された生活

完成された生活、と聞いてどんなものを思い浮かべるでしょうか。

 

まず、生活が完成していない状態を考えます。

部屋は無秩序で、それを整えるルーティンもありません。自炊にせよ外食にせよ内食にせよ粗食で、食事の時間はまちまちです。起きる時間や眠る時間は一定ではなく、睡眠時間は極端に短かったり長かったり日によってバラバラです。金銭は浪費します。いわゆる安物買いの銭失いであったり、あるいは生活の水準を最低限保つために必要な金銭さえも娯楽に費やしたりするのかもしれません。

 

完成された生活とは、これを望ましい状態に保ち続けることだと私は思います。

ステマティックに、決まったサイクルを繰り返し、秩序のある部屋で正しく生きる。

 

……のですが、私はこれをやろうとすると気力をどえらく消費します。

あらまほしき大人の姿、周りの人が私を恥ずかしい人物だと思わないような生活の理想はあるのですが、それはそれとして私自身はきわめて怠惰な人間です。

とはいえ、すべきことをするだけ、そう思う方もいるでしょう。しかしながら、心の欲求を無視して頭の命令を遂行するのはとにかくやる気が出ません。やる気というのはつまり心のエネルギーのようなものですから、エネルギーがそもそもないのに、ないものをさらに消費して活動するようなものです。破綻していますね。

破綻したものを無理やり実行すると、たとえそのシステムのおかげで空いた時間があったとしても虚無になります。

ちょっとした一休みが一瞬で蒸発し、浮いた時間など最初からなかったかのように、ただ、無為だったという感覚と、虚無が残ります。

 

目先の楽しみと理想のバランスがどこにあるのか未だにわからないまま30年が経とうとしていますが、これはおそらく、さらに30年経とうともわからないままなのだと思います。

完成された生活は遠く、生活は完成しないまま、完成を夢見ては虚無に溺れ、そうして無為に死んでいくのでしょうね。